ふつふつと思い出す

今、住んでいる場所からも近い条件のいい土地。

私たちが住んでいる市は県庁所在地で

近年土地代も上がっていて、金額的にも

場所的にも私たちにとってこれ以上の場所は

ないと思った。


なにより景色。

高台で下を見下ろす以外で開けている土地なんて、

この市にはそうはない。


ふたりともそう思ってた。

でも、わたしは決められなかった。

「どこが気になるの?」って聞かれて考えた。


"景色は確かにいいんだけど、

景色といったらやっぱり断然あっちの方がいい!"


そう。

わたしはオープンハウスに訪れた隣の県の土地が

忘れられなかったんです、、、。

有力候補

今の生活圏内で好条件の土地を見つけて、
すぐに不動産屋さんへ。
そして、またその土地へ。
わんこを連れて、お隣の公園へ。
を、繰り返したわたしたち。

いい点
・景色がいい
・まわりにお家が少ない
・予算内
・隣が大きな公園
・海も徒歩で行ける
・今の生活圏を変えなくていい

気になる点
・境界がはっきりしない
・浄化水槽
・敷地の横の細い道を通らないと行けない病院が
すぐそこにある(目線もあるし、毎日不特定多数の
車がすぐ目の前を通ることになる)
・景色が開けている側の河川敷の整備計画があって、
完成後どうなるか不明
・ゴミがいっぱいの浜辺
・公園自体は広いけど、歩道は広くなく、
散歩の人が多い公園
下のふたつはうちの犬が大人しい、言うことに
従う子であれば問題なかったかも。
でも、興奮しやすくて、なんでも食べたい1歳の
おてんば犬なもので、、、。

境界については、土地家屋調査士さんを雇っては?、
と不動産屋さんに言われました。
それって売る側がはっきりさせるべきことでは?、
って思ったけど、不動産ってそれが普通
なんでしょうか???

別の土地

凄い土地に出会ったとはいえ、そこは隣の県。

実は私は以前からその県に引っ越したいと

思っていた。

母の出身地で、小さいときから通っていて、

食べものも美味しく、景色もきれいだから。

でも、旦那さんはなんの関係もないし、

何より仕事や今の生活を全く変えることになる。


だから、隣の県に引っ越したいな、お家建てたいな、

と言いつつも、ほぼ口で言ってるだけ、の

状態でした、、、。


そんな時、今住んでいる実家からも近く、

大好きな海にも歩いて行けて、目の前が港、

2階からは山も見える、隣にはわんこの散歩に

最適な大きな公園、価格も予算内、という

今までにない好条件の土地が現れたのです。


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今見ると、電線がひどい、、、。

オープンハウス

建築家さんに建て替えの相談をした同じ頃、

以前から気になっていた隣の県の設計事務所さんが

オープンハウスをするということで見に行くことに。


寒いし、隣の県だし、まだそんなに家作りの

やる気もなかったけど、母の闘病中だった

前回のオープンハウスは行けなかったから、

"また海の目の前か、、、。今度は見たいな。"

と重い腰をあげた。


ランチもかねて軽い気持ちで行ったその家は、

というか立地は、凄すぎた。

東側が公園なので抜けていて、その向こうは

道路を挟んで海。その向こうに山。

右を向けば街並みがあって、左は岩や海が続く。

朝には朝日がのぼり、夏には花火が見えると言う。


家というより、景色にすっかり興奮して帰るとき、

並びの3区画が売りに出ていることに気付いた。

実家暮らし

母の残された時間がそう長くはない、

奇跡が起きる病気ではない、とわかったとき

わたしは実家に戻ることを選んだ。


母が亡くなって、訪ねてくれる人もいるだろうし、

1年ぐらいは亡くなった人も住んでるよ、

という意見も目にして、1年はそのまま

住むことに。

実際に不思議なことはいくつか起きたけど、

それが母の仕業かどうかは確かめようもない。


その1年の間に、家作りをすすめるつもりだった。

でもやる気が起きず、、、。

あと2ヶ月で1年、というときに、なんとなく

建て替えも考えようかな、と建築家さんに相談。

すぐにお家に来てくれて、希望を伝えて、

もろもろ測定もしてその日は終了した。

種のまわりじゃないところ

我が家はみんな食いしん坊で、

毎日デザートまでしっかり食べてた。

特に多かったのが季節の果物。

母はいつも台所で果物を切りながら、

自分は皮の近くや種のまわりを食べて、

私たちにきれいにカットされた果物を

出してくれる人だった。


入院中、毎日病院に通う時に食べものを

持っていってた。

母の生まれ育ったお隣の県の鮎の塩焼きだったり、

いつものおかきだったり。

特に多かったのがやっぱり季節の果物だった。

桃を美味しそうにぱくぱく食べる母を見れて

幸せだった。


仕事を続けながら、介護の資格もとって、

毎日病院に通って、最後はお家で看取れて、

自分でもなかなか頑張った、という思いもある。

同時に11ヶ月間ならもっと頑張れただろう、

という思いもある。


治る病気ではないし、早期発見したからって

どうこうなる病気ではないけど、

あの時こうしていれば、、という思いは尽きない。


でも、全てがあのタイミングだったから、

母の大好きな春のあの美しい日に見送ることが

出来たんだ、と自分を納得させるしかない。


私は今後もずっと果物を食べる度に思うだろう。

もっと母に食べさせてあげたかった。

種のまわりじゃないところ。


最期の日々と葛藤

ある日の朝、いつもと同じようにやけに明るく

「おーはよー」って挨拶した。

母はその声で目覚めて、"また目覚めちゃったか"

みたいな顔をして「はあ〜死にたい」と呟いた。


延命治療はしたくなかった。

母も当然望んでなかったと思う。

でもいざとなったら、わたしはやっぱり

弱めそだった。

口から食べものを食べられなくなった母の

栄養の点滴をやめられなかった。

血管も細くなっていって、針の刺される場所が

どんどん増えていっても、やめられなかった。


もう普通に話は出来ないし、動くことも

出来なくて、本人が辛いこともわかっていたのに、

生きていて欲しかった。

まだこの生活を続けたかった。


でも、静脈ポートの話が出たとき、

断ることができた。

だんだん枯れていくように、楽に、

お別れしよう、と決断できた。


最期の方は一緒のベッドで座って、

本を読んでた。

ずいぶん助けられました。